熊本市在住、現在52歳の西川佳江さんは、中2・高2の2人娘のママ。アパレルECのCEOのほか、埼玉県のFM局「Nack5」火曜深夜の番組「Goo Goo Radio」のパーソナリティを20年に渡り務めています。
よく食べよく笑いよく働く、そんな佳江さんの肩書がある日突然「がん患者」になったのは、いまから5年前、46歳のときでした。
まずは1Bの乳がんが見つかった。「深刻さゼロ」な気持ちで始めた闘病が一転した瞬間とは
「私の乳がんはいまから5年前、毎年必ず受けている人間ドックのエコーで判明しました。ステージB、6ミリくらいのほんとに小さいものでした。2月に判明、患部を6四方ほど切除するだけなので抗がん剤も使わず、4月に手術、そのあと5月半ばから6月いっぱいまで26回の放射線。よく知られる通り、乳がんのステージは生存率も高く、それこそ虫歯の治療のような感覚でした。このように、私のがんとの付き合いはライトに始まりました」
ところが、4月の終わりごろから、激しい不正出血に見舞われます。夜用ナプキンが1時間2時間で溢れて、お風呂やトイレで力を入れるたびにどろりと血の塊が流れる事態。これは異常だと感じて医師に相談したところ「GW明けに検査を」と言われてしまいます。「いやいや、どう考えてもこれは本当にまずい、絶対GW明けじゃだめだから今してください」と何度も交渉、その日のうちに検査してもらいました。
「するとGW明けに当の医師が『これはまずいことになった』と言うのです。MRIを予約しないととも言うのですが、そのMRIが混雑で予約が1か月先になってしまいます。背に腹は代えられないとつてをたどり、自分でMRIを予約しました。結果、素人目にもわかる大きな腫瘍が映り……」
検査技師さんとは「ステージでしょうか2でしょうか?」「私には診断はできませんが……」とできる限り軽い雰囲気で会話しながら平静を保ったそうです。
「ですがその間も、もう血の気が引くなどというものではなくて。実は30歳の頃に子宮頸がんの軽度異形成が見つかり、38歳で2人めの子どもを生んだ際に高度異形成になり、レーザー治療を受け、落ち着いたのでそのまま経過を3か月に1回観察し続けていました。まさか、あれだけ検査をしていたのに……?」
即座に大きな病院へと転院、ステージBと診断を受けます。
「私の子宮頸がんは子宮頚部から膣の下に沿って大きさ7ほどまで成長していました。この方向だと一般的な検査ではがん細胞が採取できなかったのですね。このサイズになるまで5年はたっているそうなので、仮に腫瘍マーカーやMRI、CTを受けていたらまた違ったと思いますが、後悔は先に立たず。そして、この位置はがん切除の際に尿道や膀胱、肛門を傷つけるリスクが極めて高く、実質的に手術不能でした。抗がん剤と放射線で治療しますと言われましたが、えっ、こんなに大きながんを体の中に残したまま生きていくの……?」
信じがたい医師からのひとこと。「これ以上私はここでは治療を受けられない」
ここでさらなる衝撃が。佳江さんが精いっぱい見せていたカラ元気が、医師には不真面目と映ったのでしょうか。低い口調で医師に「お子さんには伝えたんですか?」と聞かれました。
「当時娘たちは6年生と3年生でした。はい、もちろん言いました」
医師からは「何て言ったんですか?」と質問が。佳江さんは「お母さんはがんだけど、がんばって治すからねと言いました」と返答。すると、医師はなんと……
「『そんな簡単なもんじゃないんですよ』と冷たく言い放ったんです。明らかに吐き捨てるような言い方で」
予期せぬ言葉に一瞬理解が追い付かず、次の瞬間には頭のてっぺんから全身がすっと冷たくなるようだったと佳江さんは振り返ります。一瞬呆然としたあと、すぐに我に返り、次の言葉を探しましましたが、言葉が出てきません。ひとつだけ心に浮かんだ言葉は「ここはムリ」。
「じゃあ先生、子どもに『ママは死ぬかもしれないかもしれないけど治療するからがんばるね』って言えばいいんですか。『お母さん大変だけど死ぬかもだけど』って……? ごめんなさい、今思い出してもまた泣いてしまいますが、私、この時にはじめて、がんを宣告されてから泣きました。ずっとずっと泣かないで、できるだけ他人事のように考えて生きてきたけれど、でも、泣きました」
行き場のない悲しみと怒りを受け止めてくれたのは家族だった
下に3人の弟さんたちを抱える佳江さんは、子どものころから家族に対しても皆のバランスを考え、自分の気持ちをいちど抑えてから語り始める姉でした。帰りの車の中でまず顔が浮かんだのはお母さまだったそう。
「母に電話をかけました。心が落ち着かないまま話したのか、話をしながら号泣していました。母もまた、泣いていました」
めったに感情をぶつけない佳江さんの気持ちは、そのままお母さまに受け止めてもらえました。しかし、医師とのやりとりは深い傷になり、半ば自暴自棄に陥ったそうです。
「泣いた瞬間、それまで張りつめていた糸がぷつりと切れたのでしょうね。乳がんの放射線治療には通っていましたが、もう生きるためのアクションをなにひとつ起こす気になれなくて。結局、母から3人の弟に電話がいき、姉ちゃんを死なせたらただじゃおかない!と言われ、弟のひとりが『1回だけがん研有明病院にセカンドオピニオンをもらいに行こう』と予約を取ってくれました。でも自暴自棄だけに、それもまたしんどくて」
もういいよ、病院なんてどこも同じだよと口にしていた佳江さんですが、何度も言われ、そこまで心配してくれるならば申し訳ない、がんばって行かねばならないと、気持ちを切り替え放射線治療をいったん休み、有明病院に出向きました。
「ここが運命の分かれ道でした。結果的に言えば、行ってよかったです。がん専門の病院は何もかもが違いました」
専門病院は「世界が違う」。ここで初めて、私はまだ闘病できると思えた
「専門病院にはがん患者しか来院しないからでしょうか、先生がたがどなたもとても優しく、またそこでも泣いてしまって……」
そう佳江さんは振り返ります。今回は絶望と怒りの涙ではなく、前向きな、私はまだだれかと一緒に未来を作れるかもしれないと感じる涙でした。
「ステージの進んだがんの宣告を受けて自分の命の終わりを意識し、いろいろなことで傷ついて揺れ動き続けている私たちがん患者の扱い方を、専門家はよくご存じなのですね。同じお医者様でもこんなに違うとはと、驚くばかりでした」
ところが、精密検査を受け直したところ、こんどは「ステージはB」ですと冷静に告げられてしまいます。
「子宮頸がんステージの5年生存率は64.0%*1と言われます。つい先日まで私は1B、生存率99%の乳がん患者だったのに。これは詰んだ、さすがの私も終わったと、せっかく見えた光明なのにまた目の前が冷たく暗くなりました」
(*1 ネット・サバイバル値 出典・がん情報サービスganjoho.jp)
しかし、そんな佳江さんはすでに大きな心境の変化を迎えていました。有明病院はすべてが手厚く、がんだけに向き合っている放射線の先生が10人ほどいる体制。中には婦人科に強い放射線の先生もいらっしゃいます。これまでの病院では放射線は全科で3~5人でした。
「条件が違いすぎるので、比較に意味はないのでしょうが……。がん研有明病院は全国から重い病状の患者さんも集まる場所で、先生がたもいろいろ乗り越えていらしているのでしょう。また、早くに世を去った父が最後に入院した病院でもあり、そんな親近感も加わって、私の気持ちと病状、両方を受け止めてもらえる実感がありました」
放射線の先生とお話をした日の最後、検査結果を見た先生は「よし!がんばるぞ!という気持ちです!」と笑顔を見せました。なんだか少しだけ明るい未来が見えた気になった、と佳江さん。
「先生に『一緒に頑張りましょう!』と言っていただいて、まだ頑張れるかもしれないと感じて。『どうしますか』と確認されて、『こちらに入院したいです』と即決、でもまずは元の病院で乳がんの放射線を完了させてから入院してくださいとのこと。それに従いました」
>>>いちどは自暴自棄に陥った佳江さんが治療を始めるが、この先は「想像の何十倍もの苦難しかない」ルートの始まりで…?
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撮影/園田ゆきみ(PEACE MONKEY)