小・中9年間登校0日、新進気鋭のアーティストが歩んだ不登校から藝大受験という冒険 | NewsCafe

小・中9年間登校0日、新進気鋭のアーティストが歩んだ不登校から藝大受験という冒険

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小・中9年間登校0日、新進気鋭のアーティストが歩んだ不登校から藝大受験という冒険
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 「小・中学校9年間たった1日も登校しなかった私が、高校からピアノを始めて、藝大に行って、作曲家になった話」。レトロゲームのようなドット文字とイラストが、「不登校」というテーマに反してコミカルでかわいい『不登校クエスト』(飛鳥新社)の著者 内田拓海氏は作曲家で、東京藝術大学大学院美術研究科の大学院生だ。

 学校に行かないことを選択した当時の思い、転機となった通信制高校時代、大学受験期の葛藤や挫折、在学中の苦悩、これからの活動などについて話を聞いた。

【内田拓海氏プロフィール】1997年生まれ。神奈川県藤沢市出身。作曲家・アーティスト。東京藝術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻在学中。6歳の時、「自分は学校へは行かない!」と宣言し、小・中学校の9年間をホームスクーラーとして過ごす。通信制県立高校に進学後、一念発起。音楽経験がほぼゼロの状態からピアノと作曲の勉強を始め、2浪の末、東京藝術大学音楽学部作曲科へ進学。自身が不登校で過ごした経験から、鑑賞者にとっての“居場所”となれるアートの探究、創作活動を行っている。受賞歴に、令和5年度奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第3位、東京藝大アートフェス2023東京藝術大学長賞(グランプリ)などほか多数。

初登校は公立通信制高校
--『不登校クエスト』を書くことになったのはどういった経緯からだったのでしょうか。

 2023年の春に東京藝術大学の大学院に合格したことを軽い気持ちでSNSに投稿したところ、ちょっとバズりまして…。その投稿を見た編集者さんから声をかけてもらったのがきっかけです。本を読むのが好きなので、将来的なキャリアプランとして、いつか書いてみたいという憧れはあったのですが、20代のうちにそういうチャンスが来るとは予想外でした。編集者さんと打ち合わせを重ねていくうちに、思いがけない幸運だなと、書いてみたいなと思い今日に至ります。

--大学院に通いながら1年がかりで完成したんですね。不登校を選択した当時の気持ちについて「大人がもつ子供像、押し付けの価値観みたいなものに対して、怒りとか諦めの気持ちをもっていた」と書かれていました。自分の気持ちと折り合いをつけることが難しかったと思うのですが、その怒りをどう発散していたのでしょうか。

 発散できなかったので、発散できないままのエネルギーで、ここまで進んできたという感じです。幼少期や小学生のころって、どうしても「子供だから…」というバイアスがあって、大人に本当の自分の気持ちをわかってもらえないと感じていました。変に大人が手加減していることを子供って感じとるんです。「なめられているな」と敏感に。子供のもつ能力を見抜けていない、見抜こうとしない大人が悪いと今も思います。「子供扱いしてくる大人が9割」という本をつくれるかもしれない(笑)。限界を超えた時は癇癪を起こしてカーテンを引きちぎったり、壁をなぐったりしましたね。はたから見ると「すこし危うい子」だったと思います。自分のことをわかってもらえないという気持ちを抱え続けても自分が損をするだけなので、自分で吸収して自分で前に進むしかないと感じていました。

--親としては、社会との接点がなくなってしまうことが心配だったのではと思います。

 もちろん心配はしていたと思いますが、学校に行かせようとしなかったですし、ちょうど良い距離感・温度感で接してくれていました。それに、母数は少なくて細いつながりとはいえ、社会との接点がゼロというわけではなかったんです。幼馴染とか、家族ぐるみの付き合いがあるご家庭と交流もありましたし、フリースペースで会う同じような不登校の友達もいましたし、、習い事で会う同世代の子もいました。社会に浸透している引きこもり像、不登校像みたいなものがあると思うんですが、実際はいろいろバラエティがあるんです。そうした思い込みのようなものを解きほぐしていきたいですよね。

--「そのバラエティにも中学生の終わりごろには物足りなさを感じ、高校に行こうと思った」とありました。初めて登校した中学校の校長室で行われた、ひとりだけの卒業式で、初めて会った校長先生に「作曲家になりたい」と語ったお話が印象に残っています。

 誰かに自分の夢を話すことで実現していくと感じていたのだと思います。ゲーム音楽や坂本龍一さんの音楽に魅了されて作曲家になろうと決めたとき、いちばん最初にオフィシャルに人と話す機会がそのときでした。卒業式で1度だけお会いした校長先生なんですが、周りの人を伝ってか、自分で言っていたのか、私の作曲家になりたいという夢をうっすら知ってくださっていて、校長室でも「ペンネームはもうあるの?」と言ってくれて、温かさを感じたのを今でも覚えています。子供扱いされているとは感じず、ひとりの人間として1対1の関係で見てくれていると、思春期の中学生ながらに感じて、話したくなったんだと思います。

--はじめて通う学校は公立の通信制高校でした。ルールはあったのでしょうか。

 高卒資格を取るためにだいぶ年上の大人の方も通っていましたし、タバコを吸える年齢の人もいましたから、細かい校則はありませんでした。唯一あったのが「教科書と学生証を持ってくること」でした。そこだけは絶対に譲らない。「勉強するために来ているんだよね、教科書ないのに何しに来たの?」と教科書を忘れたら授業を受けさせてもらえないですし、学生証を見せないと学校の敷地に入れてもらえないほど厳しかったのですが、理不尽に強制されるものではなかったため、私にはしっくりきました。

--はじめて高校に通って、普通に見える人も明るく振舞っている人も、何かを抱えていると衝撃を感じたそうですね。

 本当に多様な人たちが通っている高校でした。中学卒業後に働きながら通っている人、うつ病の人、誰かに依存している人、さまざまなトラウマをもっている人、学習障害のある人、言語能力に問題がありそうな人などもいました。本来なら社会が助けなければいけないのに、まだ公的に認められていないためサポートを受けられていないような人たちというか…。前期に友達になったのに、夏休みが終わって後期になると来なくなってしまう友達もいて、連絡もつかなくなってとてもショックでした。このときの重たい記憶と体験はずっと私の中に残っていて、こういう人たちを見捨てる人間にはなりたくないという思いがあります。忘れてはいけない存在だ、と。

 これがターニングポイントだったと思います。

人と一緒に演奏することって楽しい
--合唱に出会ったのも高校時代ですね。集団生活を避けてきた中で出会った合唱について「作曲家としての出発点」と書いてありました。

 音楽研究部の顧問の先生が声をかけてくれて部活見学に行ったら、とても楽しそうだったんです。部活動も未経験ですし、学校生活への憧れもあり、ずっと学校に行ってなかった分、高校生活をエンジョイしたいと思っていました。部活ではいろいろな合唱曲を歌ったのですが、NHK合唱コンクールの課題曲などを作曲されている松下耕先生の「信じる」という代表的な曲が本当に素晴らしくて。人と一緒に演奏することが楽しいと感じたんです。

 合唱の魅力はハモる美しさとよく言われますが、たとえばピアノで弾くと微妙な響きとなってしまう不協和音も、声で鳴らすと溶けあって美しく演奏できる。楽器だとぶつかりあってしまう音も、人間の声だと綺麗に響く。それぞれの声で異なる音程で歌っているのに、合わさることでひとつの響きになるのは、やはり人の声ならではです。振動になって響きあうのを感じて、一緒にハーモニーを作っていくときのクリエイティブな作業が、一体感に溢れているのが心地よくて。

 ところが、一生懸命ちゃんと練習して、心がピタッとあうとそうなるんですけれど、皆がバラバラなこと考えていると全然あわない。やらされている感のあふれた合唱になってしまうんです。このとき、人とのコミュニケーションが音楽の本質だと感じました。

 今も音楽研究部の手伝いに行くこともあるのですが、先生方が『不登校クエスト』を読んでくださって、とても喜んでいて嬉しかったです。私の「作曲家になる」宣言を聞いてくれた中学校の校長先生にも読んでもらいたいですね。

学歴コンプレックスと自分への期待から藝大にこだわり
--高校生活をエンジョイしながら「作曲家」を目指し、受験勉強やピアノの練習もはじめました。志望校は東大か藝大という日本のトップにこだわった理由を教えてください。

 2つ理由があります。

 1つは学歴コンプレックスです。父は高卒でトラックのドライバーで、親戚にも大卒は多くない。母方の祖父は医者でしたが、全体的にはちょっとブルーカラーっぽい雰囲気がある家庭なんです。それが悪いとはまったく思っていないのですが、小さいころからネットに触れて育ったので、ネット上にあふれる、学歴に対する相当悪意のある見方に触れてしまったんです。

 自分は同じルートに進みたくないと思いました。友達のお父さんが大学の先生であるとか、理系大学出身の技術者だとかいう話を耳にすると、どうしても自分と比較してしまって。親も自分も馬鹿にされているように感じたんです。

 また、親戚の集まりで将来の話になって「拓海君はどうするんだ?」と言われ、父が「同じトラックの運転手をやればどうにかなる」と言っているのを聞いてしまったこともありました。それを聞いて、自分は過小評価されていると感じて、とても悲しい気持ちになったんです。

 2つめの理由は、日本のトップの大学に入れるくらいの能力をもっているという自分自身への期待です。自分は、大学入試という尺度で測れないようなクリエイティビティをもっているタイプで、入試のようなゲームは得意な方ではないけれど、トップ大学に入れる程度の能力もあると思っていました。だとしたら、進む先は東大か藝大。それより目標を下げてしまうと、「学歴コンプレックスの壁を乗り越えられなかった」と、のちのち後悔するのではと思いました。私立大学を併願することも嫌で受験したのは藝大だけでした。

--受験生のころの苦悩が本にも書かれていました。

 受験って本当に苦しい。でも、受験ごときを突破できない人間がプロの作曲家としてやっていけるわけがない、と自分を鼓舞しながら挑み続けました。慣れないながらに作曲もピアノも勉強し、ようやく3回目で合格しました。

--いちばん辛かったのはどんなことですか。

 浪人が決まったときです。1浪、2浪どちらも辛かった。社会的に属するところもないし、働いているわけでもないという、「立場がない状況」が辛かったんです。

 学歴コンプレックスがある私が、すでに大学生や働いている友達もいる中で、周りからも「本当に大丈夫なのか」という視線を感じながら、親に頼らなきゃいけないという状況。周りからもモラトリアム的に受け止められるし、心に余裕がない時期でした。

 まだ目に見える成果を出せていない段階って、自分自身を保証してくれるものが何もないんですよね。自分を信じることでしか自分を保てない。でも一方で、自分自身と向き合う時間をたくさんもつことができたのは良かったと思っています。受験指導をしていただいた先生も2浪で藝大という経歴だったので、気持ちに寄り添ってくださって、最後まで励ましてくれました。

受験は人生という大きな長い旅に出てく過程
--藝大入学後も順風満帆ではなく、評価に対する悔しさを味わったり、コロナ禍で世の中が変わってしまったり、大変な思いをして卒業されたことが書かれていました。志望校に入れたとしても入れなかったとしても、入学後に理想とのギャップに苦しむ大学生もいると思います。受験生や大学生のアドバイスをお願いします。

 私は行きたい大学に受かっているので、生存者バイアスがかかっていると言われればそれまでなんですが、高校、大学、大学院と、人生で3回合格をいただいて、3回不合格もいただいています。藝大入試は2回、大学院入試は1回落ちていますが、結局このプロセスもすべて最終的には人生という大きな長い旅に出てく過程でしかないと思っています。志望校に入れたとしても、入れなかったとしても、やはりその先で自分が何をやりたいかを考えて、それを得るための場所にしていくことが大事だと思うんです。

 合否という結果に一喜一憂する気持ちもすごくわかりますし、それがダメというつもりはないのですが、自分の人生をより良くしていき、最終的に良い人生を送れたと感じられるかどうかは死ぬときにしかわからないと思うんです。大学に入るまでの過程で見えたものがあるからこそ入学するのだろうし、入学してからようやく自分の求める学びの世界に入っていける。いろいろな学問を通して人生と向き合えるのが大学だと、長いストラクチャーで考えてほしいと思います。

 体や心を壊してまでも、いちばん良いと思う大学に行きたいという人はいると思いますが、その代償は大きいですよね。私自身もうつ病を経験しているのでお勧めできないです。浪人すると生涯年収が減るみたいな話もありますが、年収で置き換えられないような価値を得るために大学に行くはずなので、そんなくだらないことで浪人をどうこう言う世論や、効率主義的な考え方に惑わされず、自分がしっかり勉強できる、やりたいことができる場所を目指して無理せず自分のペースで頑張ってほしいなと思います。

--大変な時期を乗り越えて、もう一度藝大の大学院を受験して、美術研究科のグローバルアートプラクティス専攻(GAP)で学んでいらっしゃいますが、現在の活動と今後について教えてください。

 自分が作曲家としてのキャリアを少しずつ歩み始めていて、お仕事をいただけることが増えてきました。誰かの人生に差し込む光になるような自分の作品を作っていくことは1つの軸としてあります。一方で、自分の強みは多様な分野に興味関心があることなので、大学院では音楽ではなく美術の領域で学んでいることを生かしていきたいと思っています。自分がもし100パーセントのエネルギーを合唱やクラシックの作曲だけに注いでいるのであれば、それらを純粋に好きな人には勝てないと思うのですが、私は音楽という大きな軸と武器をもって活動していきながらGAPで学んでいます。ボーダーレスな作品制作を多様な人たちと協働でやっていきたいです。

 大学院での研究のほかにも、福岡県日田彦山線沿線地域振興推進協議会の事業で「アーティスト・イン・レジデンス」という、作曲家が1か月ほど福岡に滞在しながら、九州交響楽団のための新作を作曲するというプロジェクトがありまして、メンバーのひとりに選んでいただきました。とても楽しみにしています。

--最後に、学校になじめないお子さんや、お子さんの不登校に悩んでいる保護者にメッセージをお願いします。

 自分の経験が少しでも役に立てばと思い、不登校の子供たちの支援にも携わっているのですが、「その気持ちわかるよ」と軽々しくは言えないですし、孤独や痛みはひとりひとりの、1分の1のものです。それでも人間は1パーセントでも相手のことをわかろうとする姿勢をもてる。そこが人間という存在の素晴らしいところだと思います。だから人生、生きていくと必ずどこかで自分のことをわかってくれる人に出会える可能性がある。そういう出会いがあることは信じてほしいし、希望の光みたいなものはどこかから絶対に差し込んでいると思うので、諦めてほしくない。

 「幸運の女神は前髪しかない」とヨーロッパでは言うらしいのですが、向かってくるときにつかまないと追いかけてもつかまらないという意味なのだそうです。出会いは不思議とどこかにあると思うんです。希望を捨てずに、好きなこと、熱中できるものがあるなら、それをきっかけに周りと関係をこう作っていくという生き方もできる。

 私が子供だったころよりも、今は学び方も進路選びも多様化しています。親御さんは大変心配だと思いますが、自分だけのオリジナルのストーリーを作っていけば良いという風に考えて、どうかお子さんを信じて見守ってあげてほしいです。


 「不登校の話をすると、ご両親すごいですねとよく言われるんです。もちろん感謝しています。でも、やはりそれだけではなくて、もし私のストーリーに意味があるのであれば、それは私のおぼつかないながらも一歩一歩進む歩みそのものにあるし、きっとそれはみんな同じなんじゃないかと思っています」と語ってくれた内田氏。6歳の少年が挑んだ不登校というクエストは、攻略本もなければ、リセットボタンもチートコマンドもない。自分で考え、自分なりの歩幅で一歩一歩進み、仲間や師に出会い、傷ついたり、休んだりしながら今もその続きを歩んでいる、唯一無二の学びの冒険談『不登校クエスト』ぜひ読んでみてほしい。
《田口さとみ》

特集

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