「鈴木蘭々」に飽きた。ただの「鈴木智子」でもやさしくしてもらえると気付いたNY留学【インタビュー】#2 | NewsCafe

「鈴木蘭々」に飽きた。ただの「鈴木智子」でもやさしくしてもらえると気付いたNY留学【インタビュー】#2

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「鈴木蘭々」に飽きた。ただの「鈴木智子」でもやさしくしてもらえると気付いたNY留学【インタビュー】#2

芸能活動35年目の鈴木蘭々さん。現在49歳、オトナサローネ読者には、大人気子ども番組『ポンキッキーズ』(フジテレビ)で安室奈美恵さんと組んだユニット「シスターラビッツ」、ファッション誌のモデル、CMとファンだった方も多いでしょう。

前回ののお話に続き、突如23歳でニューヨークへ留学したときの心境を伺いました。

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人気絶頂期の23歳で、突然、ニューヨークへ留学

――99年、ニューヨークに留学します。留学の決め手、 理由は?

忙しくさせてもらう日々、でも同時に自分の中に枯渇感みたいなものも感じていました。23歳の時点で、10代で夢見たことがすべて叶ってしまったというのもあると思います。

あと、それまでの「鈴木蘭々」というキャラに飽きている自分もいました。だから、なにか新しいものに触れて自分を変えたいという思いがありました。

写真提供:鈴木蘭々さん

―― それがニューヨークだったのは?

もともとマドンナさんのファンなんですけど、10代に読んだ『マドンナの真実』という本に、ニューヨークという街でスターを目指す若き日のマドンナの姿が描かれていて憧れを抱いていました。エンターテイメントが盛んな街だし、さまざまなアーティストが今もニューヨークで切磋琢磨していますよね。仕事で一度行ったこともあったし、知り合いも住んでいたのでニューヨークにしました。
―― このとき、芸能を辞めるつもりではなく、期間限定の活動休止のような感じで渡米したんですか?

別に芸能界が嫌だとかつらくて逃げたいとかいうことではなかったので、やめようと思って行ったわけではありません(笑)。そもそも忙しい時期にニューヨークに留学するなんて会社からもOKが出るはずもないと思っていました。

だから当初は社長にニューヨークに留学したいなんて言えるはずもなく、でも試しに言ってみたら「いいよ」って、逆にこっちがびっくりしました(笑)。でもいろんなストレスは確実に溜まっていたはずなので、そういうのを察知してくれていたのかも……。

―― 実際どのくらい行ってたんですか?

観光ビザで行っていたんで、3ヶ月行って帰国して、しばらくしてまた3ヶ月行ってって。なんだかんだ、1年ぐらいですね。

―― ニューヨークでは、ダンスやミュージカルの勉強をしていたんですか?

勉強と言えば勉強なんでしょうけど、「普通に楽しく社会生活を送っていた」っていう感じです。当時上演されていたミュージカルや舞台は、マニアックなオフオフの作品から有名どころの作品までたくさん観劇したし、平日は基本ボーカルレッスン、ダンスレッスン、英語のレッスンと毎日なにかのレッスンは必ず入れていて、とても忙しくしていました。

写真提供:鈴木蘭々さん

ニューヨークで得たもの、新たな価値観

――ニューヨークの生活でとくに印象に残っていることは?

多くの人々からのやさしさとサポートを受けて過ごせた時間だったということでしょうか。

ていうか13歳から仕事を始めて23歳で渡米するまで、そのあいだだって多くの人々に支えられてたくさんの夢を叶えさせてもらった私なんですけど、自分の中にどこかそれは「芸能人である鈴木蘭々」だからそうしてくれているのであって、そういう肩書きがなければ人ってそんなにはやさしくしてくれないんじゃないかって。なんていうか、やさしさを疑うような……そんな思いをうっすらと抱えていました。

その原因としては、14歳のころ広告代理店の人に「この世界ではえらくなっちゃいけないよ、みんな表面上はやさしくしてくれても心の中ではなにを思っているかわからない世界だからね」と言われたことだったり、私自身が障害者のきょうだい児で子どものころ世間の冷たい風当たりを肌で感じる経験があったり、そういったこともあるのかもしれません。

でもニューヨークの人々は本当にやさしかった(笑)。それはもう想像以上でしたよ。とてもよい経験だったと思います。

――思い出の場所、また訪れたいところは?

アメリカ自然史博物館 ©shutterstock

いっぱいあるんですけど。博物館が好きで、アメリカ自然史博物館とメトロポリタン美術館は何回行ってもいいなと思ってるので、思い出の場所ですかね。あと、日本にもありますけど、DEAN & DELUCAで英語を習っていたので、そこも思い出の場所です。

メトロポリタン美術館 ©shutterstock

8th Stっていうストリートも好きでした。当時、サイバーチックっぽいファッションが好きで、サイバーっぽいものが揃ってたのが8th Stでした。

写真提供:鈴木蘭々さん

あとは、金剛山っていう韓国料理屋さん。そこの豆腐チゲがおいしすぎて、3日に1回ぐらいの頻度で食べに行ってました(笑)。

【24歳のころ】

帰国後は「代打女優」としてミュージカルでも活躍

写真提供:鈴木蘭々さん

――宮本亜門さんの舞台以降、立て続けに代役として主演を務め、主演級を演じられる「代打女優」と言われるように。ミュージカルはご自身から手を上げたんですか?

いえ、帰国してから、宮本亜門さんの『ユーリンタウン』と言う作品のオーディションの機会をいただいたので、せっかくだしと思って受けてみたら受かったのがミュージカル出演の最初です。ストレートプレイの舞台は22歳で経験はしていましたけど、観るのとやるのとではぜんぜん違って、セリフが歌だという点とさらに日本語というところに最初は慣れなくて戸惑いました。

――蘭々さんが思うミュージカルの魅力ってなんですか?

見てる側としてはやっぱりわくわくしますよね。幕が開いて、音楽がジャジャーンって流れてきたとき、すごくわくわくゾクゾクする世界。

あと出演したときにいつも思っていたことは、セットや衣装、小道具、照明やカツラのすごさです(笑)。プロの技が活きてます! ほんとに総合芸術って感じ。年代物の作品とかはメイクや衣装によって全く別人になれるのも楽しいです。

写真提供:鈴木蘭々さん

一時、主役の降板による代役が続いて、短い時間でその穴を埋めなくてはならない事態が重なったこともあるんですけど、帰国してからもレッスンを継続していたので、そのおかげで大変だったけど乗り切ることができました。

▶▶次のお話▶▶〈10/2 19:00更新予定〉化粧品会社の社長としてパラレルキャリアを築く蘭々さん。38歳でコスメ会社を起業した理由

◀◀前のお話 【鈴木蘭々さんインタビュー記事】

#1 「アムロちゃん」とのダンスの差に失望、デビュー曲は恩師「夏まゆみ」先生の振付

♪筒美京平さんが蘭々さんのために書き残していた楽曲に、新たに蘭々さん自ら歌詞を付けてレコーディングした「戦場のラブレター」
■鈴木蘭々

1975年8月4日生まれ、東京都出身。「泣かないぞェ」「キミとボク」などヒット曲多数。2018年から歌手活動を再開。芸能生活35年を迎えた23年、初のベストアルバムを発売。基礎化粧品ブランド「NARIA COSMETICS」を立ち上げ、化粧品の開発や販売もする会社の社長という一面も。インスタグラム▶

●初のベストアルバム『鈴木蘭々All Time Best~Yesterday & Today~』

写真提供:すべて鈴木蘭々さん


《OTONA SALONE》

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