元TBSアナウンサーのアンヌ遙香がニッチな眼差しで映画と女の生き様をああだこうだ考え、“今思うこと”を綴る連載です。ほんのりマニアックな視点と語りをどうぞお楽しみに!
【アンヌ遙香、「映画と女」を語る #10】
【関連記事】こちらも読まれています▶深い仲になった彼に吹き出す汗を指摘され、肉体をさらけ出すことにも躊躇する。リアルすぎて大丈夫!?更年期世代が今観るべき絶対的な理由がここにある!
4月から大学院生と社会人の二足のわらじとなる私。

「大志を抱いて」と刻まれている北海道大学の記念碑にて。
早くも季節は初夏に向かっていますね。新年度、皆さんはどのように迎えられたでしょうか? 新しい生活リズムにもだいぶ慣れてきた頃でしょうか?
私は4月からテレビなどのお仕事をしながら、大学院生として新たに研究生活も始めることにしました。いま住んでいる札幌にて、北海道大学大学院博士後期過程でジェンダー表象について博士論文を書いていこうと考えています。
こちらのコラムでは映画と女性の生き方について、時には真面目に、時にはニッチなまなざしで考えながら綴っていますが、実は映画、特に日本映画というのは私の研究材料でもあるのです。
もう少し具体的に言えば、「日本の女性が美術や報道の世界、はたまた映画の世界でどのように視覚的に表現されてきたか?」が私の研究内容です。特に映画は、私がこよなく愛する趣味の領域でもありますが、先ほどから研究研究とお伝えしていますが、こういった学術分野からは離れていた時期も比較的長くあったことは事実。
TBS退社後はマスコミからも、またこうした学問の世界からも離れていたタイミングがありましたが、そんなとき、やっぱり私は日本映画が好きだし、この世界の研究をまたすることができたら…!!という情熱を思い出させてくれた一本の映画について、今日はご紹介します。
私を大学院へ引き戻した一本の映画とは
私にとって思い入れの強い一本。松本清張原作、黒い画集シリーズ「あるサラリーマンの証言」です。サラリーマン、とありますが、男性であっても女性であっても誰にでも当てはまる怖さがあるこちらの作品。
1960年公開のサスペンスで主演は小林桂樹さんです。ある一定の世代より上でしたら、小林桂樹さんといえば、“ザ・日本の優しいおじいちゃん”のイメージが強いのではないでしょうか?
ところが本作品の小林桂樹は40代。しかも劇中でゴリゴリに不倫をしている!イメージがつかなくてびっくりするかもしれません。高度経済成長期を生きる、平凡に見せかけて狡さがぬけないモーレツサラリーマンを熱演しています。
有名企業で管財課長を務める石野(小林桂樹)は、妻と子供二人の家庭生活も円満、上司や部下との関係性も良好。毎日会社に行き、帰り、と同じことの繰り返しでありながらも、このまま順調に出世の階段を登って行くのだろうと呑気に考えていました。
平凡に見える彼の日常に刺激を与えるのが、同じ課の美人事務員梅谷との不倫関係。7月16日の木曜日も、いつものように石野は、会社が終ると新大久保にある愛人のアパートを訪ね、ほくほく顔。
ただし不倫の仲は絶対誰にも知られたくないので、アパートを後にするときもなんだかソワソワ。愛人宅を出て駅に向かっていたとき、想定外の出来事が起きます。
▶うっかりが過ぎる!?まさかの行動で「秘密の不倫」がバレそうに
思いもよらず、顔なじみの保険外交員・杉山とすれちがい、挨拶を交わしてしまったのです。まずいなと思いつつ、素知らぬ顔で帰宅。妻には「渋谷で映画を観てきた」「まあまあだった」なんて調子よく嘘を伝えた石野でしたが、三日後、刑事の訪問を受けることに。
16日の午後九時三十分頃、新大久保で杉山に会ったかどうか、と問われたのです。ぎくりとする石野。会ったと言えば、なぜ新大久保にいたのかを説明しなければならない。愛人の存在がバレれば出世も家庭も破滅だ…と、石野はとっさに「会わなかった」と答えてしまいます。
あの日すれちがった杉山は、同じ時間に別の場所で発生した殺人事件の容疑者として逮捕されていたのです。しかし、その時間に新大久保にいたことを石野は一番知っています。だってすれ違って挨拶までしているのですから。
自分の証言ひとつで杉山の無実は証明される、でもそうすると自分の愛人の存在もつまびらかにしなくてはならない…。良心の呵責と出世欲、浅ましい保身との間で、石野は「杉野とすれ違ってはいない」と頑なに主張し続けます。
このままなら杉野は死刑かもしれない、でも、自分にとっては全然知らない人だし…。このままうまくいけば何事もなかったように静かな日常が戻ってくるかもしれない。
そんな中、思わぬ形で石野本人が殺人の容疑をかけられる別の事件が起こってしまい…という展開。
保身と出世欲…誰もが陥る「幸せジレンマ」とは
とにかく、小林桂樹の出世したい、家族と仲良く暮らしたい、愛人がいれば最高、でも毎日同じことの繰り返しは嫌だ、でもでも穏やかな毎日に勝る幸せはないのかもしれない、という誰もが日常的に陥る「幸せジレンマ」と、人の命がかかっている一大事であっても自分のちっぽけな保身を貫きとおす狡さ。
正直、誰もが石野を見て、なんとなくどこか自分と重なる部分を感じてしまうような、不気味なリアリティが存在するのです。一度ついた嘘をきっかけに、どんどん石野の平穏だった日常の歯車が狂い始めます。
そして、穏やかでなんてことはない日常がどれだけ幸せなことであったかということに気づいてしまうのです。もう、痛々しいほどに。
愛人との関係を清算し、それまでしてこなかった家族サービスまで慌ててするようになります。この感じ…バカだなあと思いつつ、なんだかすごくわかる。
「平凡」の尊さ、忘れてない?
住む家があり、待っていてくれる家族がいて、コンスタントに仕事があり、好きな友人に会おうと思えばいつでも会える。普通に考えれば、これだけ幸せな日常はないはずなのに、あるものよりもないものの方を数えて、「もっとお金が欲しい」だの、「もっと旅行に行きたい」だの、「もうちょっと日常に刺激が欲しい」だの、穏やかな生活があるにもかかわらず、「もっともっと」と欲しがってしまう自分がいるのです。
石野は、その「もっともっと」という刺激を求め、愛人を手に入れ、なかなかその生活から抜け出せなくなっていましたが、自分の手元にあった会社員生活や家庭というピースの存在がもしかしたら脅かされるのかもしれないと言う危機的状況になったときに、初めて「平凡」の何にも変えがたい存在価値を痛感するのです。
この作品は1960年公開ですから、もはや半世紀以上前もの作品。人によってはモノクロの映画と言うだけで敬遠するかもしれませんが、これだけ私たちの人間心理を深くえぐり、そして誰であっても自分と重ねてしまうような、1人の人間の器の小ささや情けなさをありありと描き抜いている。この作品はとにかく凄いとしか言いようがないのです。
平凡こそ実は幸せの究極体なのでは、と寄り道を重ねた上で気づく世の真理。私は本作品を、テレビ局を退社した後たまたま目にしたわけですが、やっぱり映画ってすごいな、ということに気づかされました。そして、やっぱりこの世界が好きだし、文章を書きたい!という熱を与えてくれたのです。
私にとっては、巡り巡って「博士課程」という自分にとっての新たな挑戦のきっかけを与えてくれた大切な1本でもあります。時折これを見返すことで、今の自分の立場や生き方がいかに幸せであることかということを思い出させてくれる、踏み絵なのか、いや、日常のリトマス試験紙であるかのような、そんな作品です。
石野の嘘が最終的にどのような形で着地するのか。これは必ずや多くの方に観て確かめていただけたらと思います。