とあるジャーナリストの死 | NewsCafe

とあるジャーナリストの死

社会 ニュース
弁護士で、ジャーナリストの日隅一雄さんが亡くなりました。
胆のうがんで49歳でした。

入院先の病院で静かに息を引き取った日隅さん。私が訃報を聞いたのは夜でした。
深夜に病院に向かうとすでに地下の霊安室に移されていました。そのため、警備の人にお願いをし、最後に拝ませていただきました。

日隅さんは昨年の福島第一原発事故を受けて、東京電力の記者会見に通い続けました。今でも動画にも残されていますが、他の記者たちが追求していないするどい質問を、何度も繰り返していたのが印象的です。会見者がさらに上の責任者まで確認に行くためにいったん、休止してしまうほど。原発事故の混乱の中、何か自分たちにできることはないかと考えていた時期、多くのジャーナリストもできることを探していました。

原発事故そのものは科学の目や専門知識が必要で、非常に難しい問題です。しかし、事故の責任処理をいかに行なったのか、はジャーナリストでもできる…それを日隅さんは証明しました。

東京電力の記者会見に100回以上出席。しかし、速報メディアには所属もしておらず、執筆の機会が保障されていません。
あるのは、ブログです。そのブログは、自身が編集長を務めるNPJ(弁護士や市民でつくるニュースサイト)や、提言型ニュースサイト「BLOGOS」にリンクが貼られています。また、東京電力はニコニコ動画などが生放送していました。そのため、会見での様子を見ることができました。

日隅さんの活躍は、ネットと報道の関係を考えさせるものでもありました。

「資料もろくに用意せず、記者の質問を意図的にはぐらかす。国民に必要な情報が出ていないと感じ、ならば自分で質そうと思った」(東京新聞2月5日付)

こうした思いが、日隅さんが東京電力会見に足を運んだ理由です。私も原発事故に関連した会見は震災直後は出ていました。しかし、私が聞いても「分からない」が繰り返されていました。そのため、私は「会見では何も情報が出てこない。ならば、被災地へ行こう」と思ったものです。しかし、日隅さんは会見で東京電力に詰め寄る選択をしました。

私が日隅さんを意識し始めたのは、2010年1月。まだフリーランスには開放されていない記者会見があります。このことについて戦略を練る飲み会を呼びかけたところ、日隅さんも来てくれました。それ以前にも会ったことがありましたが、きちんと話をしたのがそれが初めてでした。
この動きはのちに、「記者会見・記者室の完全開放を求める会」の結成に至ります。そして、各新聞社に、会見開放についてアンケートを送付し、回答を得るまでに至りました。その後、自由報道協会設立準備委員会ができますが、私も日隅さんも第二次設立準備メンバーとして呼ばれました。

いくつかの場面で、私と考え方が違うと思うこともあります。ただし、日隅さんとじっくり話をしたことがなかったのも事実。そのため、聞きたいことはたくさんありました。40代だったために、まだ時間があると勝手に思い込んでいたのです。

胆のうがんで宣告された余命を超えても、存命だったために、まだ亡くならないだろうと思い込んでいました。しかし、現実に体調が悪くなっていく様子も見受けられたために、話を聞く機会を持とうと思っていました。

「『主権者』は誰か」(岩波ブックレット)、「検証 福島原発事故記者会見」(木野龍逸氏との共著、岩波書店)といった著書を出されたことをふまえて、インタビューを申し込んでいました。そのとき、日隅さんは、「いつでもいいですよ。日程を出してください。その中で調整しますから」とおっしゃっていました。
しかし、私が被災地の取材で東京を離れることが多かったせいもあり、日程を出すことを怠っていました。そのため、日隅さんのジャーナリズム精神の源泉や方向性、人となりをじっくり聞くチャンスを逃しました。

日隅さんが亡くなって、多くの人がツイートしたり、ブログでエントリーを書いています。それだけ、日隅さんの東京電力会見での質問は、人々の記憶に焼き付いたということでしょう。
これだけでも日隅さんの功績は大きかったと思います。ご冥福をお祈りします。

[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
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