
こども家庭庁の調査によると、不登校児は全国で35万人いるとされている*1。不登校児本人はもちろんのこと、その子に関わる家族や近しい人々のなかにも、誰にも言えない悩みを抱えている人は多いだろう。
今回は、1年以上も不登校を続けている中2の長女に、シングルファーザーであるわたしがどう関わってきたのか、その初期の頃についてふりかえりたい。
【仙田学・シングルファーザー小説家の子育てと社会日記】#2
*写真はイメージ
子どもはふいに調子が悪くなることがある。小6の長女が学校に行かなくなっても、いずれ行くと思っていた
長女がとつぜん学校に行かなくなったのは、小6の3学期だった。毎朝7時に起きて登校していたのに、朝に起きられなくなったのだ。家で仕事をすることも多いわたしは、10時、11時になって起きてくる長女を学校まで送った。
同じようなことは、長女が小3のときにもあった。そのときにも、わたしは毎朝学校まで送り続けた。半年ほど経ったある日ふいに、長女は何ごともなかったかのようにまた学校に通いだした。
行かなくなった理由も、また行きはじめた理由もわからない。だが、子どもにはふいに調子が悪くなるときがあり、そんなときには根気強く待っていればまた元気になるのだと知った。
だから今回も、そのうち学校に行くようになると思っていたのだが……。
ただひたすら眠り続け、家からほとんど出なくなった長女だが
長女の起きてくる時間はどんどん遅くなっていった。12時を過ぎるようになり、15時、16時になっても眠ったまま。その頃には学校は終わっているので、遅れて送っていくこともできなくなった。起きてからも、ソファに座ってぼんやりとしている。表情が乏しくなり、話しかけても笑うことが減った。
やがて3つ通っていた習い事もぜんぶ辞めたいと言いだした。放課後や休日に友達と遊ぶこともなくなり、ずっと家にこもっている。
「あんなに元気で楽しく通っていたのに、なんでこんなことになったんだろう」
わたしは胸を強い力で押されたように苦しくなった。まるで長女がえたいの知れないものに取り憑かれて、わたしの子ではないものに変わっていくように思えた。時間が経てば経つほど長女だけが取り残されて、まわりの子どもたちは前に進んでいく。
「ずっとこのままだったらどうしよう。ずっと、陽のあたらないところで生きていくことになるのかも……」
暗い考えばかりが頭をよぎった。育てかたが間違っていたのかとも思った。
次女が生まれたあとも、できる限り寂しさがないように接したつもりだった
次女が生まれたときに、こんなことをどこかで読んだ。上の子は、下に子どもが生まれると、それまでまわりからの愛情を独り占めしていたぶん寂しくなる。それでみんなの気を引きたくなって問題行動にでたり、赤ちゃん返りをしたりすることもあるという。
その話から、わたしは何かにつけて長女を優先するようにした。名前を呼ぶのも、おやつをあげるのも先にした。一方で、ひいきしているように見えないように、次女とふたりの時間を少しでもいいから作るようにした。
そんな接しかたが影響したのかはわからないが、長女は幼い頃からおとなしく、これがほしいとか、これが食べたいとかの、欲求を表にださない子だった。小学生になってからは、友達に振りまわされることが多くなり、相談されたり、友達の保護者や先生にわたしが話をつけにいったりすることが多々あった。
長女がはじめて自分から「やりたい」と、YMCAのチラシを学校から持って帰ってきたのは4年生の終わり頃のこと。YMCAとは月にいちど、キャンプにいくのを主な活動としている団体で、住んでいる場所も学校もまるで違う子どもたちが集まって協力しあう。
最初は不安だらけだったが、毎回ぶじに帰ってくる姿を見るうちに慣れた。やがて、夏には無人島で2泊3日のキャンプをしたり、冬には5泊6日のスキー合宿に行ったり。毎回「楽しかった」と笑顔で帰ってくる長女が誇らしく思えた。
卒業式の日にはじめて知った「娘の本当の気持ち」
それだけに、小6の3学期から学校に行かなくなったことが信じられなかった。不登校児が増えているというニュースは見ていたし、自分がかつて不登校児でもあった。だが、いつからか不登校はひとごとになっていたようだ。
袴をレンタルして、卒業式の前撮りを写真館で撮ったときにも、笑顔でカメラを向けられている姿に、大きな病気もケガもなくよくここまで大きくなったと嬉しくなるとともに、「卒業式でれないかもな」という苦い諦めを感じもした。
卒業式には、遅刻はしたものの参加できた。朝7時頃に起こして隣町の呉服屋までタクシーを飛ばして、着付けをしてもらってまたタクシーで学校に乗りつけたのだ。
色とりどりの晴れ着のなかに見分けることができた長女の横顔は、笑っても泣いてもいなかったが、いつになく大人びていた。式が終わった後に校庭で友達と写真を撮っているところを見守っていると、長女がわたしのそばにきて、小さな封筒を渡した。
表には、「お父さんへ」と書かれている。なかには手紙が入っていて、「これまで◯◯してくれてありがとう」と列挙されていた。
そのなかに、「学校に行きたくないときも支えてくれてありがとう」とあった。
「やっぱり行きたくなかったんだ!」とわたしは驚いた。
学校に行かなくなった理由を、長女から話すことはなかった。言いたいことは伝えてくるし、言いたくないことはどんなに聞いても答えない性格なので、話さないということは言えない理由があるのか、本人にも理由がわからないかだろうと思った。あるいは、行きたくても行けないのかもしれないとも。だから理由は探らずに、ただ学校に行っていないという出来事だけに向きあおうと努めた。
「なんで行かへんの?」「学校行きや」と口にしたほうが楽だっただろう。だが、長女から話すまで待つことにした。学校なんて行っても行かなくてもどっちでもいいよ、というふうに装って、責めることはおろか、心配したり不安になったりしているそぶりも見せていなかったはず。それが、わたしなりの支えかただった。
気づかれずに支えていたつもりだったのに、気づかれていた。そう思うと、長女と長いあいだ、言葉ではないもので会話をしてきたのだと教えられるようだった。
長女は「行けない」のではなく、「行きたくない」のだ。1ヶ月ほど経ってようやく知ることができたのはそれだけだったともいえるが、わたしにとっては大きな前進だった。
つづき>>>そして中学、娘はついに…
*1 令和6年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果(文部科学省)




