長年に渡り女性の性、身体、心、そして社会について取材を続けるライターの三浦ゆえさん。自分自身が更年期に差しかかり「感じたこと」を教えてもらいます。
前編記事『更年期になるまで「女性の身体は男性に供してこそ価値のあるもの」として扱われてきたのではないかなと』に続く後編です。映画監督・浜野佐知氏は20歳の若さでピンク映画の世界に飛び込み、その後300本を超えるピンク作品を監督しました。前編記事では三浦さんにとっての浜野監督作品との出会いをつづっています。
【私の更年期by三浦ゆえ】#3 後編
たとえば、吉行和子×ミッキー・カーチス。ともに60代なのに「欲望の主体である」おそろしい魅力
浜野監督は、1998年から自主映画も撮っている。ここでは、『百合祭』(2003年)を紹介したい。
映画の舞台に、まず心つかまれる。レトロな洋館の「毬子アパート」は、いまで言うシェアハウス。主人公・宮野さんをはじめ、高齢女性ばかりが住んでいる。将来はこんなところに住みたい、と思わせてくれる。そこに、ひとりの高齢男性・三好さんが入居した。洒脱で、マッチョなところがひとつもなく、女性の扱いに慣れている。そんな三好さんを、毬子アパートの全員が気になってしょうがない。
そこで、宮野さんと三好さんの“濡れ場”があるのです。それぞれを演じる吉行和子さん、ミッキー・カーチスさんは当時、ともに60代半ば~後半。画面に肌色は少なめだけど、着物の裾がはだけたときに見える宮野さんの脚が、たいへん色っぽい。彼女がこの瞬間、性的な主体であり、ふたりのあいだにお互いの身体への欲望がたしかに存在することが、ひと目で見て取れる。
以前、何かで見聞きした「銭湯にはいろんな世代の女性がいるから、加齢していく身体も目の当たりにできる」という話を思い出す。私はいま、宮野さんに見せてもらっているんだと感じた。年を重ねた女性の身体を、その主体性を、その性的魅力を。
他人目線で生きる人の「生きづらさ」、「そもそもその基準が無意味」と提示してくれる
自分の身体を「他人からどう見られるか」という客体として意識するだけだと、「自分にはまだ性的な魅力があるのか」「魅力は衰えてきているのではないか」と気にするはめになるけど、自分の身体を「自分自身の感じ方や欲望を持つ存在」と主体的にとらえたとき、そうした「魅力があるかないか」「衰えているかどうか」といった基準そのものが無意味になる。
そんなことを伝えてくれる名シーンでもあったと思う。私のなかにあった、加齢による身体の変化への恐れのようなものを払拭する機会をくれたのは、浜野監督はじめ性を表現する女性たちだった。
そして私は40代を目前にして、「たくさんの女性の裸」を目にすることになる。銭湯ではなくストリップ劇場で。出演しているのは若い女性ばかりではない、というのは通いはじめてから知ったこと。そこは、思いのほかいろんな世代の女性がいて、ときに年を重ねた身体も見ることができる場だった。次回につづきます。
つづき>>>更年期になるまで「女性の身体は男性に供してこそ価値のあるもの」として扱われてきたのではないかなと
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