モラハラ・夫婦問題カウンセラーの麻野祐香です。
今回ご紹介するTさんが望んでいたのは、ただ「夫と話したい」という、ささやかで当たり前の願いでした。夫婦として、普通に言葉を交わし、お互いの気持ちを伝え合いたかった。
けれど、「夫に話しかけても会話にならず、茶化されるばかりでした」とTさん。
「冗談だよ」と言ってはぐらかす、そんな夫の態度に、Tさんの心は少しずつ深く傷ついていきました。今回は、そんなTさんのお話をお届けします。
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※写真はイメージです
会話のキャッチボールが成り立たない日々
Tさんが求めていたのは、特別なことではなく、日常的な夫婦の「会話」でした。たわいのない話をしながら、気持ちを共有したい。思っていることを素直に伝え、一緒に笑って話せる時間がほしかったのです。
しかし夫に話しかけても、茶化されるか、さえぎられるか、冷たく言い返されるだけ。そのたびにTさんは、「言わなければよかった」と感じ、心を閉ざしていきました。
「夫はいつも私をバカにするんです。でも、全部“冗談だよ”って言うんです」
Tさんはそう話し、次のような夫の言葉を挙げました。
「ほんと、性格悪いよな(笑)」
「友達いないでしょ?」
「土管みたいな体型だよね」
こんな言葉を日常的に浴びせられるといいます。Tさんが「ひどくない?」「傷つくからやめて」と伝えると、夫は決まってこう返すそうです。
「冗談に決まってんじゃん。マジになるなよ」
Tさんは、公園や街で笑い合いながら会話をしている夫婦を見かけると、心が締めつけられるそうです。
「いいなあ……私も、ああやって夫と笑って話してみたかったって。でも、そんな会話を夫とした記憶がないんです」
Tさんは言います。
「会話って、本来はキャッチボールのはずじゃないですか。でも、夫の言葉は、顔面めがけて投げてくるドッジボールなんです」
言葉を受け止め合うのではなく、冗談という形で強く投げ返してくる。それはもう、会話ではなく“攻撃”です。こうしたやりとりを「夫婦の軽いふざけ合い」「冗談の範囲」と受け取る人もいるかもしれません。けれどTさんにとっては、その一言一言が、心にナイフを突き立てられるような痛みでした。
冗談という名の暴力
冗談という名の暴力、これも立派なモラルハラスメント(モラハラ)です。
モラハラ加害者の典型的な特徴は、自分の発言に責任を持たず、相手が傷ついたことを「冗談だった」「冗談も通じない妻だ」とすり替えてしまうこと。つまり、「冗談」という言葉を盾にして、攻撃し放題の構図を作っているのです。
本心では相手を見下していたり、不満を抱えているのに、それを正面から伝えるのではなく、笑いながら遠回しに傷つける……こうした言動は、心理学では「間接的な攻撃(パッシブ・アグレッション)」と呼ばれています。
さらに、傷ついた側が「つらい」と訴えると、
「そんなことで?」「冗談も通じないの?」
と返され、まるで自分の感覚の方がおかしいような気がしてくるのです。
こうした言葉を日常的に受け続けていると、次第にこんなふうに思い始めてしまいます。
「私は冗談が通じない人なのかも」
「ちょっと過敏すぎるのかな」
「これくらいで怒る私は、面倒な人間?」
これは、加害者の言葉によって、自分の感じ方に自信が持てなくなっているサインです。本来なら相手のほうが悪いはずなのに、なぜか自分が悪い気がして謝ってしまう。それが「冗談モラハラ」のもっとも怖いところです。
モラハラ夫にとって「冗談」が便利な理由
では、なぜモラハラ夫は“冗談”というかたちで攻撃してくるのでしょうか?理由はとてもシンプルです。本音をそのままぶつければ嫌われてしまう可能性があるけれど、冗談にすれば自分の立場を守れるからです。
冗談という形を取れば、相手を簡単に攻撃することができます。しかも、相手が怒ったり反論してきたら、「冗談に決まってるだろ」「そんなことで?」と逃げることができる。つまり、言葉による攻撃の責任を取らずに済むという“安全地帯”に、常に自分を置いておけるのです。
このようにして、相手を下に見ながら、自分は安全な場所から一方的に攻撃する構図が成立してしまうのです。
たとえ言い方が柔らかくても、たとえその場の雰囲気が和やかであっても、あなたが「傷ついた」と感じたなら、それは“冗談”ではありません。ましてや、その言葉が何度も繰り返され、自信を失っていったり、自分を責めるようになってしまったのなら、それは立派なモラルハラスメントです。
Tさんも、ここまで深く傷つけられていたにもかかわらず、最初はこう言っていました。
「私が気にしすぎなんでしょうか?」
「こんなことで悩むのは変ですか?」
まるで、自分が悪いかのように思っていたのです。
自分に自信が持てなくなってしまうと、「本当に私は傷ついているのか?」と、自分の感覚さえ疑い、不安になってしまいます。この心の傷は、本人にしかわかりません。だからこそ、自分の気持ちにフタをしないでください。
どんな言い方であっても、相手を否定し、人格を傷つけるような発言は“冗談”ではありません。
「傷ついた」と感じたあなたの心は、決して大げさでも、弱いわけでもないのです。
Tさんは、夫の「冗談」の名を借りた数々の言葉で、心をすり減らしていました。表面上はなんとか日常生活を送っていても、心はすでに壊れかけていたのです。最も深刻だったのは、「自分がどう感じているのかが、わからなくなってしまった」ことでした。
人は、自分の感じ方を否定し続けると、「私はおかしいのかもしれない」「私が間違っているのかも」と、自分を責めるようになります。これは“自己内在化”と呼ばれる現象で、本来は加害者にあるはずの責任を、自分の中に取り込んでしまう心理状態です。
こうしてTさんは徐々に、「自分という存在がぼやけていくような感覚」を持つようになっていきました。
「何が好きなのかわからない」
「誰かといても、自分らしくいられない」
「誰と話しても、“本当の自分”じゃない感じがする」
これらはすべて、自己肯定感が大きく損なわれているサインです。自分の考えや感情に価値を見いだせなくなると、人は「ただ周囲に合わせて存在しているだけ」という感覚に陥り、生きづらさを感じるようになります。
でも、忘れないでください。
あなたが「つらい」と思う気持ち、それこそが、あなた自身を守るための大切な“心のセンサー”なのです。多くの人が「我慢する力」や「大人の対応」に価値を置きがちですが、本当にあなたを守るのは、自分の感情をきちんと感じる力です。
本編では、「冗談だから」と繰り返される心ない言葉に、自分の感情すら信じられなくなっていったTさんの苦しみをお伝えしました。
▶▶「もう愛していない」心が壊れるまで我慢した妻が、モラハラ夫と決別するとき
では、モラハラの支配から抜け出し、自分自身を取り戻していくTさんの姿をお届けします。