震災当日、岩手県釜石市鵜住居の防災センターに避難した多くの住民が亡くなった。その数はまだはっきりとした検証ができていない。その鵜住居での犠牲に対してようやく検証委員会が立ち上がった。
岩手日報(11月29日)のWeb版では、『釜石市は12月、東日本大震災検証委員会を立ち上げる。市の初動や住民の避難行動、多くの犠牲者が出た同市鵜住居町の防災センターの惨事などを検証。年度内に取りまとめ、防災計画見直しに反映させる。検証委員会は市や関係機関、自主防災組織の代表らで構成。12月9日に初会合を開き、年度末までに3回開催する予定だ』と伝えている。
同防災センターは、津波避難所ではなく、危険を回避した後に身を寄せる2次避難所に位置づけられている。市は3月3日の「津波の日」に行った避難訓練で、避難先を本来の高台ではなく、同センターに設定していた。そのため、当日も、同センターに避難した人が多かったとも言われている。
一方、鵜住居にあった鵜住居小学校と釜石東中学校では、児童生徒に犠牲者はいなかった。「釜石の奇跡」とも言われた。釜石東中では2009年度から防災教育に力を入れていた。そのため、子どもは助かったが、親は亡くなるという震災遺児の比率が他の地域よりも高くなっている。
私がこの地域を最初に訪れたのは4月7日。任意団体でグルーフサポートをしているLive on(リヴオン)の代表・尾角光美さんら3人で同行取材をしている時だった。この日の取材目的は、大槌町の保育園の取材だった。避難生活をしている中で、早々に保育園を再開し、住民たちの自立の役に立とうとしている保育園があったからだ。そのため、遠野市から大槌町に行く途中に立ち寄った。その時の、緊張感はいまでも覚えている。
後に、住民から同センターの悲劇について話を聞いたが、「当時の様子を詳しく知る人がいる。メディアの取材も受けたが、なかなか市が動かない。話しても無駄だ、と思い、今は口を閉ざしている」との話も聞いた。「防災センターで何があったのか?」を市が積極的に検証していない状況だった。
私は8月2日、釜石市災害対策本部を訪ねた。担当者は「鵜住居では、津波が大きかった。どういう形で逃げたのか。検証しなければならない。あの地域は、高台に逃げろ、というだけでだった。今後は、ハザードマップも防災計画も作り直しだ。海に近いところは危険であり、ハードでは防ぎ切れない。住民にも逃げる意識が必要だ」と話していた。
震災から9ヶ月が経とうとしている。私が同本部を訪ねて4ヶ月、ようやく市の検証委員会が設置されることになった。この震災で、私が気にしている一つの地域である釜石市鵜住居の「あの時」が明らかにされることを願う。
[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://foomii.com/mobile/00022)を配信中]
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