「奇跡なんかじゃない」という言葉を… | NewsCafe

「奇跡なんかじゃない」という言葉を…

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3月11日は、岩手県釜石市鵜住居で過ごしました。東日本大震災以後、3月11日は、ずっとそこで過ごしています。これまで取材した何人かが、鵜住居にあった「防災センター」の跡地に訪れていました。

被災地を取材して、この場所をこだわるいくつかの理由があるからです。一つはここには「防災センター」という建物があり、多くの人が避難しました。しかし、大津波はこの建物を飲み込んでしまいました。生きようとして避難したにもかかわず、津波の犠牲になった人が200人以上いるとされています。

また、釜石市では「学校にいる子どもたちは全員無事だった」と、小中学校の児童生徒の避難行動が「釜石の奇跡」と称されることがあります。私は当初「学校にいる子どもたち」という言葉にひっかかりを覚えました。「学校にいなかった子どもたちはどうしたのか?」と思ったのです。すると、当時、釜石東中では一人の女子生徒が風邪で休んでいました。その生徒が病院から自宅に向かう途中、防災センターに避難したのです。そこで命を落としました。

子どもたちの避難行動で、積極的に小学生と手をつないだ中学生といったイメージが出来上がっています。しかし、避難行動も、中学生が手をつないだのも教員の指示です。また、小中学生が最初に避難した特別養護老人ホームは高台ではなく、指定避難所ではありません。さらに高台に避難したのは、近くの崖が崩れたためです。津波を予期したわけではありません。崖が崩れなければ犠牲者が出ていたかもしれません。それだけ危うい中での避難でした。

「奇跡」と呼ばれた避難行動が、釜石市での津波防災教育による成果だとすれば、卒業生はどうだったのかも気になりました。当時、学校を休んでいた高校生がいますが、一人の女子高生は防災センターの前に避難していたことが目撃されています。そして命を落としました。またもう一人の女子高生は高校卒業をして、自宅にいました。目の前が避難場所の神社境内でしたが、亡くなってしまいました。

11日の「岩手日報」の社会面では、学校に残った事務職員が亡くなった話が掲載されていました。「釜石の奇跡」と呼ばれるかげで命を落とした事務職員がいたことを私はこの記事で初めて知りました。

釜石市内の保育園はどうだったのでしょうか。釜石保育園や鵜住居保育園は地震後に高台にすぐに避難しました。しかし鵜住居幼稚園は隣の防災センターに職員が避難しました。当時預かり保育で4人の子どもがいました。2人は保護者に引き渡しましたが、2人は防災センターに避難したのです。避難した2人は奇跡的に助かりましたが、職員は一人をのぞき、津波の犠牲になったのです。保護者に引き渡した2人のうち、1人の子どもとその保護者は防災センターに避難し、亡くなりました。

さらに言えば、カウントされない子どもの犠牲もありました。鵜住居幼稚園の臨時教諭片桐理香子さんはこの日を最後に産休に入る予定でした。震災のある週の月曜日に、みごもっていた子どもの性別が分かり、名前を付けたばかりでした。

夫の浩一さんはなぜ、理香子さんが避難所ではない防災センターに避難をしたのかをずっと疑問に思っていました。園庭に避難した教諭や子どもたちは消防関係者の手招きでセンターに避難したことがわかりました。避難マニュアルでは園庭への避難後は、「園長の指示」となっていましたが、園長は市教委の指示を待っていたのです。しかし、連絡がつかず、そのうち津波に襲われました。理香子さんの両親は、解体された防災センター跡を見ながら、「何事もなかったかのようだ」と口を揃えました。

写真は、夫の浩一さんと実母の仲子さん。理香子さんが2階の部屋に避難したが、その位置と思われる場所に花を置き、手を合わせた。

被災した地元ではこうした犠牲があったことはわかっているのですが、紹介されるときには、「釜石の奇跡」がクローズアップされてしまいがちです。子どもたちからも「奇跡なんかじゃない」という言葉をよく耳にします。きちんとした事実が伝わらなければ、教訓も提言も出てこないのです。そんな思いを抱きながら、3年目を迎えました。

[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
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