被災者たちの体験や感情の話を聞いて、私にいったい何ができるのか。何度も考えました。
具体的なサポートができるわけではありませんし、ボランティア活動をしているわけではないのです。
被災地を見て、被災者の話を聞き、伝えることしかできない。ただ、できることを探すと、取材し、書く事でしかないのです。
そう思ったのは阪神大震災のときもそうでした。
長野県の地方紙の新人記者だった私は、休みを取って神戸市に向かったのです。
何かできることはないか。そう思った私は最初にボランティアセンターに行ったのです。
休日は三日。何ができるのかを考えた私は、「三日ボランティアをするのも悪くはない。しかし、私はメディアの人間だ。伝えるべき何かがあるはずだ」と思い、長野県の医療チームが常駐していた長田区に向かう事にしたのです。
その意味では、自分ができるのは、まずは被災地を取材し、伝えることだったのです。
そして、次にできることは忘れないことでした。
私は阪神大震災の取材で後悔していることがあります。
継続取材を1年半で辞めてしまったことです。
勤務地が長野県で、被災地が神戸市であるという地理的条件やプライベートでの忙しさも背景にありましたが、「忘れてしまった」というのも大きいと感じています。
だからこそ、今回は規模も範囲も違うが、忘れないための取材をしようと決めたのです。
伝える側もいろいろな感情が渦巻いています。
福島県の地方紙のひとつ・福島民友の記者は津波の被害に遭い、亡くなってしまいました。
現場では多くの記者達が、遺体を見たり、叫び声を聞いています。
そんな中で、伝えることしかできない記者の中には、「人を助けられないなら、伝える意味があるのか?」と考えた人もいたようです。
「サバイバーズ・ギルト」や「サバイバーズ・シェイム」に似た感情を持った記者もいました。
特に最初の数日間は、生命の危機がある中です。迷いながらの取材だったようです。
もちろん、心理的なストレスや葛藤は、医療職や災害ボランティアの側にもあります。
そのため、支える側であっても、支えきれない状況に陥る危険もあります。
当初からそれを見越した対策をしていた医師がいました。
宮古市田老の田老診療所の黒田仁医師です。
災害医療の訓練を特別に受けていたわけではないのですが、10年間地域医療をしてきた黒田医師は、咄嗟の判断をせざるをえない中で、トリアージ(救命治療の優先度の決定)など的確な対応をしていました。
心のケアにも早くから注目し、被災者だけでなく、「ミイラ取りをミイラにさせない」ために、支える側のカウンセリングも重視しました。
メディアでは、震災孤児、震災遺児の心のケアが話題になっています。
もちろん、親が亡くなった子どものケアは重視されるべきでしょう。
しかし、同じ程度に、孤児でも遺児でもない子どもたちへのケアも必要なはずです。
そして、まだ子どもは学校という空間が守ってくれていますが、学校を離れた若者たちもどのようにケアすべきかを考える必要があります。
サポート体制から離れている人たちのことを考える取り組みが必要ではないでしょうか。(終わり)
《NewsCafeコラム》
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